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2008-05-04 Sun 01:01
じとり、と。 湿った暑気が、小麦色に焼いた肌に纏わりつく。 喘いだ喉に、汗が伝った。 見上げた空は、暗い。 分厚い雲に覆われて、星ひとつ見えなかった。 どこからか聞こえてくる虫の声が、不気味にさえ思える夜だ。 暗闇に、ぽつ、と頼りない街灯が、アスファルトの上、細く黄色い帯を落としている。 圭太は大きく息を吐き出し、両手で自分の頬を軽く叩く。 浮かんでくる闇への怯えを、そうしてごまかそうとする。 ジーンズのポケットから携帯電話を取り出し、そのささやかな明かりにほんのすこしの安堵を得て、ふたたび歩き出した。 左の手指だけで操作して、数分まえに届いた和樹からのメールをもう一度、開く。 話があるから来てくれ、という内容。 それにしても、と圭太は思う。 「なんでこんな時間に呼び出すねん、アイツ。アホか」 時刻はすでに、零時を過ぎていた。 とはいえ、いつも明るい和樹にしては珍しくたった一行であったそのメールに、なにやら落ち着かなくなって真夜中に家を出てくるほどには、親しくしている友人だ。文句を言いつつも、和樹の身を案じていた。 だが、いつも通りなれているはずだというのに、ほかに人の気配がない真夜中の道は、どこか別の場所のように感じる。 まるで、まったく知らない世界に迷い込んでしまったかのようだ。 高校から帰宅する際に突っ切ってくる児童公園は、視界に入れたくないほど暗い。 足早にその脇を通り過ぎ、和樹とその家族が暮らすマンションへと向かう。 駐車場の角を曲がったとたん、 「うわっ」 思わずちいさく声を上げて、足を止める。 低い位置に、双つの黄色い光。 それは、こちらを一瞥すると、さっさと車の下へと消えていった。 「……猫ぉ」 驚かすなよ、とほんのわずかな怒りと安堵に、くちびるを歪める。 と、そのとき、 こつ……っ 背後に、ちいさな音を聞いた。 息が、詰まる。 心臓が、冷たい手に握られたような、そんな感覚。 ただの、なにか硬くちいさなものが落ちる音、だ。 自分には関係ない。 怯えることなんて、ない。 そう、自分に言い聞かせるのに、なぜか身体が凍り付いて動けなかった。 まるで、見えない手に両の足首を掴まれているかのようだ。 そして、気付く。 そよ、とも風が吹いていないことに。 さきほどまで聞こえていた虫の声が、やんでいることに。 ざわり、と足もとから這い上がってくる恐怖に、総毛立った。 唯一自由になる瞳だけをせわしなく動かして、圭太は街灯に照らされて長く伸びた自分の影を、正面に見る。 くっきりと浮かんだ影。 けれど、ただの影だ。 音もなく、喉に唾を飲んだ。 おそるおそる、視線を右へと移し、しん、と静まり返った駐車場を見やる。 なにも、ない。 異常なんて、あるわけがない。 だって、猫がいた。 たぶん、まだいる。 そう、自分を納得させようとして、ふたたび自分の影に、視線を移した。しかし、 「っ!」 それを見たとたん、喉が引き攣り声にならない悲鳴を発する。 自分の、影。 そのすぐ隣りに、もうひとつ、影が現れていた。 それは、頭ひとつ分、短い。 背後だ。 背後に、いる。 せわしなく繰り返す呼吸。 早鐘のように鳴る心臓。 見るな、と圭太は自分に言い聞かせる。 だが、明らかに背後から漂ってくる空気の質が、違う。 冷たく静かで、そして、 重い。 こつ……っ びくり、と身体が硬直する。 こつ……っ 息が、できない。 こつ……っ 立て続けにこぼれたそれが、もうひとつの影の上を転がってきた。 見覚えのある、かたち。 ちいさくて白い、それ。 いや、それは真っ白ではなかった。 気付いたとたん、異臭に気付く。 ぬらり、と絡みつく、血の臭い。 無理やり引き抜かれたと思われる、歯。 それが、転がってきたものの、正体。 ……タスケ、テ しわがれた、声。 それが、背後から。 囁くような、声。 ……ケ、テ……ケイ……タ ケイタ、と呼ばれたとたん、その声が誰のものであるのかを、圭太は覚った。 けれど。 見るな。見てはいけない。 そう、本能が叫んでいる。 ……ケ、イタ 見るな。絶対に、見るな。 けれど、 「カズ……っ!」 圭太は、振り向いた。 そこにいたのは、和樹だ。 けれど、それはもはや、和樹ではないモノ、だった。 その右手には、引き抜かれた歯を。 そして、歯のない血塗れの口で、にやり、と笑って。 大きく見開いた血走った目で、嬉しそうにこちらを見据えて。 ブン……ッ 左手に握ったなにかが、振り下ろされる。 圭太は、悲鳴を吐くことさえ、できなかった。 すべてが、止まってしまったからだ。 思考も、息も、その鼓動さえも。 そして、 ぱちん 誰もいない夜の道。 ちいさく音を立てて、街灯が消えた。 残ったのはただ、深い静寂とじとりと暑い闇だけ。 |
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| 鳳蝶の森 |
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